「スターチャイルドの妄想(仮名)」

部屋1

真っ白で無機質な部屋の隅で少年が座っている。この少年の容姿は人間の少年と同じだけど、何か人間とは違う生命体のような雰囲気を出している。目が異様な色で光っていて、髪型や服装も異様で無機質な感じがする。部屋の壁に時計のような物体が掛かっていて、その針は動いていない。壊れているようだ。少年はなにやら妄想している。。。。場面が少年の妄想の中に入っていく・・・・

神というのはどういう存在か、全知全能、創造主、全てを超越した存在と、人々は考えるけど、それは人が人の価値観で計り生み出したものではないだろうか。強い・弱い、上・下、有能・無能、有知・無知、美しい・醜い、こういった人々の中での判断基準で計った上で、そのあらゆる全ての事柄の上位者であると、人が考えているだけかもしれない。

全てを持っているという事は、それは限りなく無に近いということで、1個体としての性質は0に近いと思う。何にでもなれるというのは、何にもなれていない存在ではないだろうか、人間1人の存在を形作るには、欠けた部分が必要で、その部分が個性として存在感を強めている。欠けた部分がまったく無い完全体は、存在としては薄く、いや薄いどころか、存在が無いと思う。存在している=欠けた部分があると考えられる。神は存在ではなくて、この世に用意されている全ての事柄のことかもしれない。

人間が、何かを得るために活動を行い何かを得る。得れば得るほど神に近づいている訳だけど・・・ということは同時に失っているものがあり、人としての存在が薄まっていて、何かを得るということは同時に無に向かっているのかもしれない。しかし人間は存在を無くせるほど多くを得ることはできない、というよりも欠けているものの方が多く、それが人としての存在を形成している。どんなに天才であっても、この世に用意されている全ての事柄には追いつけない砂粒のようなものではないだろうか。いや砂粒という表現は間違っている。大・小という概念そのものが無く。何かを得るための活動そのものが個性を際立たせた欠けた存在感がある。全てを持っていると何かを得るための活動はできない。進化できない。何もできなくなってしまう。それは無と同じことではないだろうか。

人の活動は月の満ち欠けの変化に似ている。人は何かを得るために進み変化する。しかし全てを得てしまうと進むことができなくて無になり止ってしまう。つまり全てを得られないという事が人が存在する以上必要不可欠な事柄である。どこまで行っても前に道(難関)が用意されていないと存在できないのだ。月は違う見え方の変化が先に用意されていて、同じ変化を繰り返す。人に一定の道(難関)を繰り返し与えるには、その道が輪でつながっているのだと思う。何かを得るための活動自体が輪(つながり)の一部で既に決まっていた事柄で、始まりがあり終わりがあるのではなく、輪の中で流れ続けている一部であると思う。生まれること死ぬこと、歴史ですら輪の中の過程でしかないと思える。月は太陽光によって見え方が変わるだけで、月本来の丸い形は変化していない。人の本質も変化していないのではないだろうか。

偶然性がまったく無く、運命や必然というものが、完全に絶対的な不変であるとすると人の存在とは一体なんだろうか、全てを持っている神を作るよりも、常に前に進める欠けた存在(人間)を維持することの方が大変だと思う。しかしその大変な輪の工程を繰り返すのは何のためだろう。その答えは分からない、というよりも問題があって答えがあるというものではなく、答えがないのが答えかもしれない。なぜならその答えが明確に用意されているなら、それは輪の過程でしかない、人はその過程を追い続ける事ができるから存在できる。人が欠けている存在でいることの方が貴重で大切であると思える。

プログラミング

輪の過程を繰り返すためには、全ての生き物にプログラミングし、制約や困難を用意しなくてはならない。まるでハムスターが回転梯子を永遠と駆けるように、全ての生き物がプログラミングされているとすれば、創造主とは、とても大変な作業をしている。そしてその創造主も完全ではない。完全であれば目的を持って何かを行うことがないからだ。神が完全なものの喩えならば、創造主は神ではなく、創造主自身も回転梯子を駆けていて、その輪廻が何のためにあるのか分からないかもしれない。

無から有を作るということは、より完全ではない欠けたものをつくることだ。目に見える形にするだけでも大きく制約が生まれる。しかし元々は完全なものだったのではないか、その完全さからかけ離れれば制約や困難が発生し、そこに進む道があるけど、元々は皆、無から始まっている。ということは皆、神だったのだ。完全な無こそが神だ。この世に完全な無など存在しない。酸素、窒素、分子、原子、素粒子、暗黒物質、暗黒エネルギーでさえ存在している。その無の何にでもなれる究極の可能性こそが神だ。

魂という言葉がある。魂は限りなく無に近い、でも確実に存在している。これは無から有であるためのプログラム。これをプログラミングしたのが創造主。では創造主とは一体なんだ。魂よりも無に近い存在で人格のようなものがあるとは思えない。人格があるということは最も制約や困難を受け、欠けた存在である証拠。どんなものでも作ることができる創造主とは無(神)にもっとも近く、もっとも薄い存在である。思えば人より動物→植物→菌類の方が無(神)に近いのではないだろうか。

輪廻の意思(意味)

輪廻には意思があるのではないだろうか、それともただ意味もなく回り続けていて、その一部として生命が加担しているだけだろうか、無(神)には意思が無いが、無(神)から有に移行した時点で意思が生まれているかもしれない。答えが無いのが答えだとしても、欠けた濃い存在の人はどうしても求めてしまう。これだけの大変な輪廻を用意するには、何だかの意思があると思えてくる。意思があるということは無からかけ離れた存在であるのだけど、無に近いものに意思があると仮定してみると、生命を維持するための輪廻で、輪廻を維持するための生命という意思が見えてくるが、それすらも輪の過程でしかない(輪廻→生命→輪廻→生命でつながった輪)。それ自体がどんな意思で何故存在するのか、その答えを求めても、答えが過程に変化し、答えを求める行為すら輪廻の輪でつながっている。

人は分からない事には不安になるものだけど、それが分かったとしても一つの過程を手にしただけで、不安が消えることはない。この不安こそが回りつづけるエネルギー源である。全てを理解し全知全能者になるとエネルギーは無くなり無になってしまう。永久に終わることの無い果ての無い輪が人の存在を支えていて、その輪自体も輪でつながっている。輪廻の意思などは到底理解できるものではないのである。その答えは過程であるからこそ回っていけるからだ。

部屋2

場面が白い無機質な部屋に戻り、少年も妄想から戻る。少年がふと壁の時計のようなものを見ると秒針が1マス(1秒分)進んでいる。再び少年は妄想する。

見えるもの・見えないもの

人は目に見えるものを確立した現実と捉えている。見えないものは不安定要素として捉えている。見えないものを重視するか、しないかは人それぞれだけど、その存在があることは気づいている。実際には見えないものの方が多く、見えるものは極々一部だ。そして見えないものによって支えられている。人が何かを判断する時にそういったものに後押しされている。自分自身の判断だと思っていることは、創造主にプログラミングされた運命かもしれない。見えないものが創造主であり輪廻という大きな流れを支えている。創造主は人格ではなく暗黒エネルギーのようなものだろう。

では人は自分自身というものは無いのだろうか、いや、どこまでが自分で、どこまでが他という境界自体ないのかもしれない。でも大きな一つの本質はあり、それは決して変わらないと思える。その本質は1人1人違い、その行動を創造主によってプログラミングされ後押しされている。では本質とは誰が作ったのか、それも創造主である。その元は無(神)である。ということは、やはりどこまでが自分領域という境界はないのではないか、自分だと思っている意識ですら、様々な見えないものによって支えられている。そしてその事が輪廻の大きな流れになっている。いやこうなると大きい小さいという表現すらも意味をなさないだろう。

ただ人は自分と他者との境界を意識するものだ。それはどんな状況や関係であっても意識する。意識することも見えないものによる影響ならば、人はその通り行動するのだろう。では何故そのような境界を意識するのか、もともと境界自体無いはずだけど、それを意識するのは、全ての意識が一つになり統合すると無(神)にもっとも近い存在になってしまうのではないか、それぞれの意識は無く存在も無くし無(神)になる。そう人は無(神)になると存在できないのだ。境界を意識するのは人が生命の流れ(輪廻)のその位置にいるからだと思われる。

進化・退化

生命は進化する。人の流れはバクテリアから魚、動物、ヒトと進化したが、他にも様々な枝分かれした進化があり、それが途絶えたものもある。しかし進化するということは退化するということではないか、進化と退化は同義語のように思う。人からさらに進化が進むと、無(神)に近い存在になるとすれば、それはバクテリアの存在よりも薄い存在になるということで、それは退化とも言える。あらゆる要素が増えて何にでもなれる可能性というのは、無(神)そのものである。そもそも進化・退化という表現自体ないのかも知れない。人からみて進化してる退化してると人が判断しているだけで、生命の流れがあるだけではないだろうか、人の一生の中で感じる様々な感情や幸福感、不幸感というのは、他の生命形態、例えばネズミや虫であっても、在り方が違うけど同じ分だけ感じているのではないか、ネズミなんかは心臓の鼓動が早く、人の時間より早く生きているけど、ネズミは1秒を1時間と感じているかもしれない。虫や微生物にしても、人が脳で考え感じる事とは違う在り方で、その一生があるはずである。そこに進化・退化はなく、生命の在り方の変化があるだけだと思う。まさに月の満ち欠けの例えと同じだと考えられ、そしてつながっている。

生と死

生と死は、学校へ入学し卒業するのと同じようなことではないかと思う。その位置の目印のようなものではないかと思う。生まれる前、死んだ後に何があるのかを考えると違う生命形態になるか無になるかという風に思いつくが、どちらも同じことではないだろうか、人は人とは違う生命形態になるのは嫌だと、無になるのは怖いと考えるかもしれないが、それは現在、人という生命形態であるから、そう思うだけではないか、例えば鳥は飛べない人間になるのは嫌だと考えているかもしれない、いやその考え方も人間的で、つまりは鳥には鳥の在り方があるということだ。無になるとは神になるということ、それはあらゆる可能性の全てを含んでいるのである。それは生命だけでも様々で惑星なんかも生命といえる。石や鉄といった物質になる可能性もあるし、惑星を生命と考えるなら、物質もエネルギーを持つ生命ともいえる。いやこの世に存在するすべてが何だかの意味を持つということは、存在そのものがエネルギーである。分子原始レベルでは皆同じようなもので、それに人間が言葉で区切りを付けているだけかもしれない。無になるとそういったものになれる可能性だけではなく、無のままでいると全知全能の完全状態で、全てが明確なのかもしれないが存在がなく進化・退化もないのだろう。存在するということは完全ではなくなるということだから。

時間

時間は、常に一定の時を刻んでいるわけでは無いと思う。動くものには時は遅く流れ、止まっているものには時は早く流れる(相対性理論)。ということは1人1人時間の流れ方が違うということ、それは物理的な時間の流れではなく、感じ方ではないだろうか、楽しいと時間が早く感じたりするのも関係があると思われ、歳の割には若く見える人や、老けてみえる人というのも、それぞれの時間が流れているのだろう。それは人だけではなく、他の生命にも同じことが言えるのではないだろうか。そして時間こそが輪廻を具現化したもので、時間の流れは暗黒エネルギーの流れ、見えないものの流れと同じで、輪廻を支えているもの。

部屋3

少年がまた妄想から戻り、部屋の時計を見る。するとまた秒針が1秒分進んでいる。どうもこの部屋ではまだ2秒しか進んでないようだ。そしてまた妄想に入る。少年は独自の解釈や妄想を繰り返している。今度は場面は少年の妄想に入っていかず、部屋の時計を映している。時計は急に早送りしたように早く進む。一気に22時間分ぐらい進んでもとにもどる。そして場面が少年の方を映すと、少年は老人になっている。あれから少年は22時間分、独自の妄想を繰り返していたのだ。彼が人の容姿をしていることから、人を基準に様々な妄想して同じことでも何度も何度も練り直していたようだ。そしてさらに時間が進み老人の姿が発光しながら消えていく、もう表現すること自体に意味はなく、それは正しさや間違いも意味を持たないレベルに変化している。妄想しているのか、していないのか、いや存在しているのかどうか・・・・そして光が消えるとともに老人の姿が消える。

時計が24時を指し、何か神秘的な鐘の音のようなものが鳴り。その音とは別の音が聞こえる。「オギャーオゥギャーオオギャー」

おわり

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